1月24日(火)、淑徳大学公開講座「すべては心の表れ~『唯識三十頌』を読む(2)~」の第8回(全12回)の講義をしてきました。
前回(1月10日)の続きで、同じものを見ていても、唯識の道理(「それがある」と認識しているものごとは、すべて自分の心が作り出したもの)をわかっている人とわかっていない人で、見え方が違うという話でした。
例えば、砂漠でオアシスが見えても、それが蜃気楼だとわかっていない人は、そこにオアシスが実在すると思います。しかし、それが蜃気楼だとわかっている人は、そこには何もないということもわかります。つまり、「それが蜃気楼だとわかる」ことは、「そこには何もないとわかる」ことでもあるのです。
そのオアシスが蜃気楼だとわかっている人は、オアシスが見えていても、それにとらわれません。そのオアシスが実在だと思っている人に対して、それ相応の対処ができます。
唯識の道理をわかっていない人は、ものごとは自分の心と無関係にそこにあると思います。唯識の道理がわかっている人は、すべては自分の心が作り出したのだとわかっています。これは、ものごとには実体がない(空)であるとわかることでもあるのです。
唯識の道理がわかっている人は、ものごとの存在にとらわれません。そして、まだわかっていない人を導くことができるのです。
まあ、本当に「唯識の道理をわかっている」のは、仏・菩薩のレベルですが。